Wikipedia英語版"Darfur Conflict" 2007年6月初頭現在 全訳 2007年6月版
http://en.wikipedia.org/wiki/Darfur_conflict
【コメント】
この翻訳は、日本におけるダルフール紛争の最低限の情報のレベルの底上げを図るために行った。
訳は6月時点のものです。英語サイトは既に更新されてますが、基本的な記述は変わっていません。[注]の番号の変更が大変なのでそのままとしました。6月時点なのでUNAMIDおよび新たな和平交渉の展開も出てきませんが、「ダルフール・ニュース」に元記事が掲載されてますのでご覧になってください。
なお当然ながらWikipedia固有のリンク機能は働きません。
2007年6月以降は:
「ダルフール紛争クロニクル2007年6月〜12月」
http://darfur-news.seesaa.net/article/90039494.html
を制作しました。そちらをご覧ください。
****************************************
Darfur conflict ダルフール紛争
From Wikipedia, the free encyclopedia
---------------------------------------------------------------------------------
Darfur Conflict
ダルフール紛争 2003年〜現在
地域 ダルフール
事態 人道的カタストロフィー(約20万〜40万人以上の死者と250万人の難民)
・・・
---------------------------------------------------------------------------------
ダルフール紛争はスーダン西部ダルフール地方における紛争である。二つの主な武装グループはスーダン軍と主に北部リゼイガト(Rizeigat)族から召集された”ジャンジャウィード(Janjaweed)武装集団”である。もう一方は様々な反政府組織からなる。よく知られているのは”スーダン解放運動(Sudan Liberation Movement)”と”正義と平等運動(Justice and Equality Movement)”で、主にフール(Fur)、ザガワ(Zaghawa)、マサリト(Massalit)などの民族集団から召集されている。スーダン政府は、公式には否定しているがジャンジャウィードを支援しており、資金を提供したり武装を補助したいしてきた。そしてダルフール側に支援を提供する農耕部族をターゲットにして共同して攻撃してきた。[1] 紛争は2003年始まった。主に北部イスラム教徒と南部のクリスチャンやアニミスとの間で戦われた第二次スーダン内戦とは異なり、ダルフールにおける兵士および犠牲者のほとんどすべてはイスラム教徒なのである。[2]
非バガラ全住民への政府とジャンジャウィードの攻撃が主な人道的危機をもたらした。その結果数十万に及ぶと見られる死傷者が同時に生じたのである。国連(UN)は、紛争は暴力と病気により死者は45万人に上ったと見積もっている。[3]たいていのNGO(非政府組織は)国連が引用した国際正義連合(the Coalition for International Justice)の統計により20万人から40万人以上と見ている。スーダン政府は殺されたのは9,000人だったと抗議するがそれは事実に反すると見られている。[4][5]2006年10月時点で250万人に及ぶ人々が難民となっていると考えられている。[6] (下の「死者数」のセクションを参照)
スーダン政府は2004年以降証人を投獄処刑したり、法医学的価値を抹殺するため大量の墓を破壊するなどして証拠を隠したりして、情報の隠蔽に成功してきた。[7][8][9] 加えて、ジャーナリストを妨害したり逮捕することによって、スーダン政府は何が起こったかをほとんどわからなくすることができたのだった。[10][11][12][13] マスメディアはこの紛争を「民族浄化」であり「ジェノサイド」であると報道し、現在躊躇なくそうしている。アメリカ政府はそれをジェノサイドと呼んだが[14]、国連はそうしなかった。(List of declarations of genocide in Darfurを参照)2007年3月国連ミッションはダルフールの「ひどい暴力」の指揮と加担を非難し、現地の民間人を保護するため緊急な国際的行動を呼びかけた。[15]
2006年7・8月に戦闘が悪化した後、2006年8月31日、国連安保理は決議1706号を採択した。それは新たに資金が乏しく、装備も悪い7,000人のAUMISスーダン平和維持軍に17,300人の軍隊を補充するものだった。スーダンは決議に強く反対し、国連軍を外国の侵略とみなすと言った。翌日、スーダン軍はダルフールに大攻撃を仕掛けた。(New proposed UN peacekeeping force参照)しばらくして紛争は中央アフリカ紛争の国境の一部まで拡大した。
この記事で使用される略語一覧
AU: アフリカ連合(African Union)
DLF: ダルフール解放前戦(Darfur Liberation Front)
IDP: 国内難民(Internally Displaced Person)
JEM: 正義と平等運動(Justice and Equality Movement)
NRF: 救国戦線(National Redemption Front)
SLA: スーダン解放軍(Sudan Liberation Army)
SLM: スーダン解放運動(Sudan Liberation Movement)
SPLA: スーダン人民解放軍(Sudan People's Liberation Army)
UN: 国連(United Nations)
UNSC: 国連安保理(United Nations Security Council)
目次
1 背景
2 紛争の歴史、2003年−2007年
2−1 ジャンジャウィードの暴発(2003年)
2−2 5月合意(2006年)
2−3 2006年7月−8月
2−4 国連平和維持軍新提案(New proposed UN peacekeeping force)
2−5 履行の失敗(2006年9月)
2−6 悪化(2006年10−11月)
2−7 国連とスーダン攻撃の妥協提案
2−8 2007年1月−4月の停戦合意とその急速な解体
2−9 国際刑事裁判所告訴
2−10 2007年5月
3 ロシアと中国の制裁無視
4 国際的反応(2003−2004年)
4−1 ジェノサイド告発
4−2 国際的反応の批判
5 死者数
6 ポッピュラーカルチャー
7 参照
8 注記
1 背景
主な記事:ダルフール歴史
ダルフールで起こっている紛争は多くのお互い絡まった原因を持っている。ナイル河周辺の国の中心と、ダルフールのような「周辺」地域との間の構造的不平等に根本的問題はあるが、環境的災害、政治的な楽観主義、地方主義的政治の結合によって20世紀の最後の20年の間、緊張は悪化した。この混乱の特徴は「アラブ」と「アフリカ」の間の紛争だと言われてきた。しかしその二分法は、ある歴史家によれば「真でありかつ偽である」。[16]
14世紀末ないし15世紀初頭、マラー山脈のフール人のケイラ王朝はこの地域にイスラムのサルタン王国を築いた。サルタン王国はナイル川を南下したトルコ−エジプト軍によって征服された。しかしその軍は自称マハディであるムハンマド・アーマドによって打ち負かされた。マハディスト国はハーバート・キチェナーに率いられたイギリス軍の猛攻に滅び、イギリス−エジプト領としてスーダンに組み込まれた。イギリスはダルフールに法律上の自治を認めたが、1916年侵略し、相対的に未開発な地域を除いて、プロビンス(県)に組み入れた。
イギリスの多大な投資を受けてきたナイル渓谷の居住者は、1956年達成された独立後、典型的な経済的政治的放置主義を取り続けた。1968年の選挙で、支配的なウマ党の党派主義は、サディク・マハディのような候補者達に、農耕定住民にアピールする場合にはアラブによる自分達の地域の低開発を非難することによって、あるいはバガラの半遊牧民の場合は、仲間のナイル・アラブを支持するようアピールするかでダルフールの選挙民を分裂させるよう指導した。このアラブ−アフリカ二元論は、目で見てわかる地域の関係から自然に生まれたものではなく、リビヤ大統領ムアマー・ガダフィが砂漠周辺地を横断するアラブ・ベルトを築こうと目をつけ、アラブ原理主義のイデオロギーを宣伝したことで悪化したものである。[18] リビヤ支援イスラム地域の創設を含む1960年代から1980年までのスーダン、リビヤそしてチャドの相互関係の継続の結果として、スーダン大統領ガアファル・ニメイリは、ダルフールをヒッセン・ハブリに率いられた反政府軍の後方基地としたのである。ハブリ軍は、チャド政府の転覆を試み、そして同時に反ガダフィ主義者だった。[19]
1983年と1984年干ばつでこの地域は飢饉に陥った。[20] 飢饉で310万人の人口のうち約95,000人が死亡した。ニメイリは1985年4月5日政権を降り、サディキ・マハディは全然尊敬などしていなかったガダフィと取引をして亡命し、来るべき選挙のために集めていた資金を持ってダルフールからリビヤに寝返ったのである。[21]
2003年初頭、二つの反政府グループ、正義と平等運動(JEM)とスーダン解放運動(SLM)[22] は非アラブ系住民を抑圧する政府を非難した。JEMよりはるかに大きいSLMはザガワ人のワギ族と同様、フール人やマサリト人と連携していた。他方JEMは一般にザガワ人のコベ族と連携していた。2003年後半、両グループの指導者、スーダン政府および国際的外交団の代表が、人道的危機の解決に道筋をつけるための人道的対話センター(Center for Humanitarian Dialogue)によってジュネーブに召集された。2004年二つの部族集団、ラシャイダ部族の自由ライオン(Free Lions)とべジャ議会(Beja Congress)の同盟が作ったグループ、東部戦線(Eastern Front)にJEMは参加した。JEMはまたハッサン・ツラビによってコントロールされていると非難されてきた。
2006年1月20日SLMはJEMと合併し、西スーダン革命軍連盟(Alliance of Revolutionary Forces of West Sudan)を結成すると宣言した。しかし5月には、SLMとJEMは再び別々の組織として交渉していた。
紛争の歴史、2003年−2007年
ダルフール紛争
SLM - JEM / 政府 - ジャンジャウィード(Janjaweed)
ダルフール地方での紛争の開始点は一般的に、ダルフール解放前戦(DLF)と自称するグループが、ジェベル・マラ郡の司令部ゴロへの攻撃を宣言した2003年2月26日とされる。しかしこの攻撃に先立って、反政府勢力が警察や、軍の前哨地や軍輸送部隊などを攻撃しており、ダルフールにおける紛争はすでに勃発していたのである。そして政府はマラー・マウンテンに本拠を置く反政府勢力に大量の空軍と陸軍で猛攻撃を加えていたのである。反政府勢力の最初の軍事行動は2002年2月25日その山の駐屯部隊への攻撃でそれは成功した。そしてスーダン政府は2002年6月のゴロ警察襲撃以来、統一されていない反政府勢力の存在を知っていたのである。年代史家ジュリー・フリントとアレックス・デ・ワールは、蜂起の始まりは、むしろ、ザガワ族とフール族のグループがアブ・ガムラで出会い、政府の支援を受けた者の攻撃に対抗して共同して村落を防衛するクランの誓いを立てた2001年7月21日であると述べている。[23] 明記しておかなくてはいけないのは、ダルフールの住民はほとんどすべて、ジャンジャウィードやハルツーム政府指導者たちと同じくイスラム教徒だということである。[24]
3月25日チャド国境沿いのティナの町の駐留地を制圧し、大量の装備や武器を手中にした。軍を「出動する」というオマル・バシルの脅しにもかかわらず、軍隊に人はほとんどいなかった。軍は第二次スーダン内戦が停戦した南部と、エリトリアから資金提供を受けた反政府勢力が中央部の油田地帯からポート・スーダンへ新たに建設されたパイプラインを脅かした東部の両方にすでに展開していた。半砂漠地帯をトヨタ・ランド・クルーザーで高速で駆け抜ける反政府勢力のヒット・アンド・ラン作戦に、砂漠での戦いに不慣れな一方の軍はほとんどお手上げであった。しかも山上の反政府勢力の陣地からの空爆は破壊的だった。[25]
2003年4月25日5時30分、33台のランド・クルーザーに乗ったスーダン解放軍(SLA)とJEMの合同軍がアル−ファシールに入り、寝入っていた駐屯部隊を攻撃した。引き続く4時間、政府よれば4機の(反政府勢力によれば7機の)アントノフ爆撃機と銃撃ヘリコプターが地上で破壊され、75人の兵士・パイロット・技師が殺され、空軍大将を含む32人が捕虜となった。奇襲の成功はスーダンでは前例のないものだった。:20年に及ぶ南部での戦争で、反政府勢力スーダン人民解放軍(SPLA)はそのような作戦は決して実行できなかった。[26]
アル−ファシール奇襲は軍事的心理的にターニング・ポイントとなった。軍はアル−ファシール奇襲で恥をかき、政府は戦略的に困難な状況に直面した。軍はこのあたらな種類の戦争を戦うために再訓練と再展開が必要なのは明白であり、軍内部に多くの権限を持たないダルフール出身の多くの司令官や兵士の忠誠心に強い関心を持ったのだった。戦争を遂行する席にはスーダン軍諜報局にゆだねられた。それにもかかわらず、2003年半ばには38の戦闘の内34回反政府勢力が勝った。5月SLAはカトゥムの大体を破壊し、500人を殺害、300人をほろとした。そして7月半ばにはティナへの2回目の攻撃で250人が殺害された。SLAはさらに東部に侵入をはじめ、コルドファンへ戦争を拡大しようと脅かした。
しかし、この時点で政府は戦略を変えた。もし軍が一貫して負け続けるなら、戦争の勝利は次の三つの要素にかかっている:軍事諜報、空軍、そしてジャンジャウィードである。ジャンジャウィードは政府が、1996年から1999年にかけて反乱を起こしたマサリト族の鎮圧を指示したバガラ族武装遊牧民である。ジャンジャウィードは新たな反−反乱戦略の中心に位置づけられた。軍備はダルフールに投入され、ジャンジャウィードは通信機器と何らかの武器を備えた準軍隊として仕立てられた。そのような戦略が問題のある結果を生むことは軍作戦担当者には明らかだった。:先立つ10年間ヌバ・マウンテンや南部の油田地帯で取られた類似の戦略は、大量の人権侵害を生み、難民を発生させたのだ。[27]
武装を強化されたジャンジャウィードはすぐに優位に立った。2004年春頃、数千人?のほとんど非アラブ人?が殺害され、百万人以上の人々が故郷を捨て難民となり、ダルフール地方で大規模な人道的危機を引き起こしたのである。ジャンジャウィードに追われた10万人の難民が隣接するチャドになだれ込み、チャド政府軍が国境沿いでジャンジャウィードと衝突したとき、危機は国際的次元のものになった。70人以上の民兵と10名のチャド兵が4の一回の銃撃戦で死亡した。国連の監視団は、非アラブ系村落が狙い撃ちされ、アラブ系村落は無傷のままだったと報告した。
シャタヤ行政区の23のフール族の村落が、徹底きに略奪され放火され、完全に無人になった(監視団は二日間にわたりその地域を自動車で回りそのような場所をいくつも見た)。一方そのような黒焦げの場所に沿って無傷の、人が住む、機能するアラブ系の居住地が点在した。いくつかの場所では破壊されたフール族の村落とアラブ系の村落は500mも離れていなかった。[28]
2004年、チャドは4月8日、スーダン政府とJEMおよびSLMの間の人道的停戦合意に導くンジャメナの交渉の仲介をした。4月?にJEMから分離したグループ、改革と開発のための国民運動?はその4月の停戦協議ないしは合意に参加しなかった。ジャンジャウィードと反政府勢力の戦闘は停戦以降も続いた。アフリカ連合(AU)は、想定されている停戦を監視するため、停戦委員会(CFC)を作った。
危機の規模は一触即発の災厄の警告を出すまでになり、ジェノサイドの危険がダルフールで恐るべき現実となると国連事務総長コフィ・アナンは警告するに至った。ジャンジャウィードの軍事行動の規模はルワンダ・ジェノサイドと比肩するものとなったが、スーダン政府は直ちに激しく否定した。民間人や小さい子供や幼児の殺害と死体損壊含むジャンジャウィードの作戦はユーゴスラビア戦争で用いられた人種浄化に非常に近いものであると独立系の監視団員は記したが、地域が遠く離れているため、何十万もの人々が効果的に援助から切り離されていると警告した。ブリュッセルに本部を置く国際危機グループ(International Crisis Group)は2004年5月、35万人以上の人々が飢餓や病気のため死んだ可能性があると報告した。[29]
2005年7月10日元SPLA指導者ジョン・ガラングはスーダン副大統領に忠誠を誓った。[30] しかし2005年7月3日ガラングはヘリコプターヘリコプター事故で死亡した。[31] 彼の死は長期間の影響力を持ち、治安の改善にもかかわらず、ダルフール地方の様々な反政府勢力間の協議は遅滞した。
2005年12月スーダン国境近郊のチャドの町アドレへの攻撃で、300人の反政府軍が死んだ。スーダンは三日間その地域に二度の攻撃をしたスーダンは非難された。[32] その地域の緊張の高まりで、スーダンに対してチャド政府は宣戦布告をし、「共通の敵」に対して戦闘に臨むようチャド国民に求めた。 [33] (Chad-Sudan conflictを参照)
5月合意(2006年)
2006年5月5日、スーダン政府はミニ・ミナウィに率いられたSLAと合意に調印した。しかしその合意は他の小グループ、正義と平和運動(the Justice and Equality Movement)とSLAのライバル党派[34]の二つによって拒否された。合意はアメリカ国務次官補ロバート・B・ゼーリック、(アフリカ連合のために働いていた)サリム・アーメド・サリム、AU代表、その他外国の政府幹部によって、ナイジェリア・アブジャで作成され、調整されたものであった。合意はジャンジャウィードの武装解除とすべての反政府軍の解体、と軍隊への統合を求めた。[35][36]
2006年7月〜8月
2006年7月から8月の間、戦闘は再開され、国際援助団体が隊員に対する攻撃のため撤退を考えるほど「世界最大の援助活動を停止させる脅威となった」。国連事務総長コフィ・アナンは7,000名のアフリカ連合軍(AMIS)に取って代わるためその地域に18,000名の国際平和維持軍を要求した。[37] [38] 2006年7月ダルフールの町カルマで焚き木を厚めに難民キャンプを危険を犯して出た女性7人が、ジャンジャウィードにレイプされ、暴行を受け、略奪された。その後彼らは女性を服を脱がして裸にし彼女らが逃げていくのをあざけ笑った。[39][40][41]
8月18日国連平和維持軍司令官補佐、平和維持活動事務総長補佐官へデイ・アナビはダルフールで大規模な軍事攻撃の準備をスーダンが企てているように思えるとプライベートな会議の席上警告した。[42] その警告は国連人権委員会特別調査官シマ・サマルがスーダンのその地域での努力は5月合意にもかかわらず貧弱なままであると述べた後翌日だった。[43]8月29日7,000名のAU軍を17,000名の国連軍に交代させるのに反対し続けた。[44] それはアメリカが現在の地位の「潜在的結果」についてスーダンを「威嚇」し続けた結果であった。[45]
8月24日、スーダンは10,000人のスーダン兵を、計画中の国連平和維持軍の代わりに派遣する計画を説明するため国連安保理(UNSC)に出席するのを拒んだ。[46] UNSCはスーダンの出席拒否にもかかわらず会議を開催することを告知した。[47] また8月24日国内難民委員会はこの数週間カルマ難民キャンプ周辺で数百人の女性がレイプないし性的暴行をされたと報告した。[48] ジャンジャウィードはレイプを武器として使用してきた。その地域では文化的にレイプされた女性は穢れたものとみなされ、追放された。女性達は、彼女たち自身、そして彼女達の家族達をますます辱めるため、表の、公共の場所でさえレイプされた。攻撃におけるレイプの使用の広がりは文書化されたものよりおそらくかなり多い。なぜならレイプされた女性は普通積極的に名乗りでることはないからである。[2] 8月25日アメリカアフリカ問題局補佐官ジェンダイ・フレイザーは、もし国連平和維持軍の展開が認められないなら、その地域の安全状態は危機に瀕すると警告した。[49]
8月26日、UNSC会議2日前、その日にフレイザーはハルツームに到着することになっていた。アメリカのナショナル・ジオグラフィック・マガジンのジャーナリスト、ポール・サロペクがスパイ容疑でダルフールの裁判所に立っていた。;彼は、外国のジャーナリストに対する厳格な規則のために、チャドから不法に入国した。彼は後にバシル大統領との直接交渉で釈放された。[50] それはスロベニア大統領特使トモ・クリナールがスパイ容疑のため2年間の懲役判決を受けた後だった。[51]
国連平和維持軍の新たな提案
United Nations Security Council Resolution 1706(国連安保理決議1706)を参照のこと
2006年8月31日、UNSCは17,300人の平和維持軍を派遣する決議を採択した。スーダンはその決議に強い反対を表明した。[52] 2006年9月1日、AU幹部はスーダンがダルフールに大規模な攻撃を行ったと報告した。AUによれば20人以上が殺害され、1,000人以上がその月の攻撃の間に難民となった。[53] 9月5日スーダンは月末までにダルフールから離れるようダルフールのAU軍に求め、「この地位を国連であれ、何であれ移転する権利はない。この権利はスーダンの下にある」と言った。[54] 2006年9月4日、驚くべきものとは見られない行動だったが、チャド大統領イドリス・デビイは新たな国連平和維持軍に協力すると声明を出した。[55] 2006年9月30日平和維持軍の委任が満期となるAUは国連平和維持軍に参加すると確約した。[56] しかし翌日、匿名のアメリカ国務省幹部はAU軍は期限を過ぎてもその地域に残るだろうと記者団に語リ、「実行可能で、生きたオプション」としてこの可能性を引き合いに出した。[57]
履行の失敗(2006年9月)
2006年9月8日、国連難民高等弁務官アントニオ・グテレスは、ダルフールは「人道的カタストロフ」に直面しているといった。[58] 2006年9月12日ヨーロッパ連合スーダン特使ペカ・ハーヴィストはスーダン軍が「ダルフールで民間人を爆撃している」と警告した。[59] 世界食糧計画はダルフール地方で少なくとも355,000人が食糧援助を打ち切られていると報告した。[60] 国連事務総長コフィ・アナンは国連安保理に「ダルフールの悲劇は危機的状況に達してしまった。それはこの安保理の注意を惹き急速な行動を求めている」と言った。[61]
2006年9月14日、現在消滅したスーダン解放運動(SLM)の指導者であり、現共和国大統領上級補佐官兼ダルフール地方暫定政府議長のミニ・ミナウィは、平和維持軍の展開を西欧の侵略行為であると考えるスーダン政府と立場を異にするが、それには反対はしないと述べた。ミニ・ミナウィはAU軍は「その委任権限が極めて限られているのでないもできない」と非難した。[62] しかしハルツームは、バシル・スーダン大統領が植民地的計画といってみたり、「我々はスーダンをもうひとつのイラクのようにしたくない」と言ったように国連平和維持軍に対して頑ななままだった。[63]
悪化(2006年10月〜11月)
10月2日スーダンの反対の所為で無期限に保留された国連軍の計画とともに、アフリカ連合は2006年12月31日までダルフール地方での展開を延長すると告知した。[64][65] 200人の国連部隊がAU軍を補強するため派遣された。[66] 10月6日、国連安保理は2007年4月30日まで国連スーダン・ミッションの権限委任を延長する採択をした。[67] 10月9日食料農業組織はその「作物予想および食料状況レポート」でリストの40カ国の中スーダン・ダルフール地方が最も逼迫した食料危機として掲げた。[68] 10月10日国連事件高等弁務官ルイーズ・アルブールはスーダン政府が1ヶ月前南ダルフール、ブラムでジャンジャウィードが攻撃するとの情報を前もって知っていたと非難した。その攻撃で数百人の民間人が殺されたのが目撃されている。[69]
難民キャンプの子供達はトラウマに立ち向かうよう励まされている。ジャンジャウィードによる攻撃を描いた泥人形。
10月12日、ナイジェリア外相ジョイ・オグウが2日間の訪問のためダルフールに到着した。彼女はスーダン政府に国連の打開策を受け入れるよう求めた。エチオピアの演説で、ナイジェリア大統領オルセグン・オバサンジョは「ダルフールにおけるジェノサイドが大きくなっていくのを立ち上がってその目で見よ」と語った。[70] 10月13日、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは2006年ダルフール和平および説明責任法に基づいてダルフールの大惨劇に共謀するものに対してさらなる制裁を課した。その方策はアメリカ市民がスーダンとの石油関連取引への関係(アメリカの企業は1997年からスダンのいかなるビジネスとの関係も禁止されている)、共謀党派の資産の凍結およびアメリカへの入国の禁止である。[71]
アフリカ連合スーダン・ミッションは資金不足で、装備が貧弱なため、政府軍および連合民兵と反政府勢力の、非難を受けている新たな攻撃とともに12月31日までダルフールの暴力行為は悪化するといわれている。しかし今のところその日付以後何があるかに関する合意は何もない。援助隊員は、彼らのアクセスが戦闘によってひどく制限されていると言い、何人かは国連当局がダルフールを世界最悪人道的危機と呼んだ2003年と2004年に見られたレベルまで人道状況が悪化すると警告した。[64]
2006年10月22日、スーダン政府は、国連特使ジャン・プロンクに3日以内に出国するよう言った。スーダン国連特使であるプロンクは、個人のブログでダルフールにおける最近のいくつかの軍の敗北の記述を投稿して、軍によって激しく非難された。[72]11月1日に、アメリカははスーダン政府がより受入れやすと考えた国際的計画を整備中だ発表した。[73]11月9日に、スーダン大統領高等顧問ナフィエ・アリ・ナフィエ(Nafie Ali Nafie)は政府が無条件に、ダルフールの反政府勢力同盟である国民補償戦線(NRF)と協議を開始する用意があると記者団に語ったが、新たな和平合意のために役立つものはほとんどない点を注意した。インター・SLM党派だけが署名した5月の合意を拒絶したNRFはコメントを出さなかった。NRFは以前から新たな和平合意を求めてきた。[74]2006年後半、ダルフール・アラブ人は自らの反政府勢力グループ、民衆軍隊(The Popular Forces Troops)を立ち上げ、12月6日、彼らが前日カス・ザリンギ(Kas-Zallingi)でスーダン軍による攻撃を撃退したと発表した。声明において、彼らはジャンジャウィードをダルフールのアラブ人を代表しない傭兵と呼んだ。2003年以来、多数のダルフール・アラブ人グループは政府の戦争反対するとする声明を発表し、一部は反政府勢力とも政治協定にサインをした。
妥協的な国連軍の提案とスーダンの攻撃
11月17日、ダルフールにおける「妥協的な平和維持軍」を配置する可能性の報告が公表された。[75] しかし後にスーダンによって拒否されたことがわかった。[76] 国連は、それにも関わらす11月18日スーダンが国連平和維持軍展開に合意するよう求めた。[77]
スーダンのラム・アコル(Lam Akol)外務相は、「混成軍に関する話はありえない」と言った。そして国連の役割は技術支援に限定されなければならないと言った。11月18日にまた、AUはスーダン軍とスーダンに支援された民兵がダルフールで、地上軍と空軍の作戦を開始したと報告した。その結果約70人が死亡した。AUは、これは「安全協定の凶悪な侵害だ」と述べた。[78]
11月25日、国連人権高等弁務官報道官ルイーズ・アルブールは、少なくとも30人の命を奪った,11月11日のシルバ(Sirba)町の民間人に対する「計画的でいわれのない攻撃」にスーダン政府が関わったことを非難した。コミッショナーの声明は、「政府の主張に反して、スーダン軍隊がシルバで民間人とその資産への計画的でいわれのない攻撃を行ったのは明らかである」、またそれは広範囲かつで理不尽な破壊と民間人の資産の略奪を含んていると主張した。[79]
2007年1月−4月 停戦合意とその急激な消滅
セーブ・ダルフール・コアリションによれば、ニューメキシコ知事ビル・リチャードソンと大統領アル・バシルは、スーダン人に停戦に合意した。それによればスーダン「政府と反政府グループは、持続的和平へ向けて努力する間、60日間光線を止める」。[80] 加えて、セーブ・ダルフール・プレス・リリースは、合意が「人道援助とダルフールへのメディア・アクセスを改善するために、いくつかの譲歩を含んでる」と述べた。停戦のだと述べた」。停戦の正式の手続きにもかかわらず、殺害と他の暴力行為の報道がさらに続いた。[81][82]2007年4月15日日曜日に、アフリカ連合平和維持軍はターゲットとなり殺害された。[83]ニューヨークタイムズは、「スーダン政府が安保理決議を侵害して、ダルフールに武器と重火器を空輸し、国連あるいはアフリカ連合航空機に偽装させるためスーダン軍飛行機を白く塗っていると秘密の国連レポートが書いている」と報じた。[84]
暴力行為は、国境を越えてチャドに広がった。2007年3月31日、ジャンジャウィード民兵は、スーダンの近郊のチャドの不安定な東部国境地域で、400人近く殺害した。攻撃は、国境の村ティエロ(Tiero)とマレナ(Marena)で起こった。村は包囲され、銃撃された。
避難した村民も後で追跡された。UNHCRによると女性たちは襲われ、男たちは銃撃された。最初の攻撃生き延びてもしばしば避難の間、消耗と脱水により死亡した者が多くいた。[85]
2007年4月14日チャド内でさらに多くの攻撃があったことをUNHCRは報告した。それらは再び国境の村ティエロとマレナで起こった。[86]4月18日ブッシュ大統領はアメリカ・ホロコースト記念博物館でのスピーチで、スーダン政府を非難し、もし状況が改善されないならば制裁の行使をほのめかした。制裁は、スーダン政府と29のスーダン企業との貿易とドル取引を含むものだった。[87]
国際刑事裁判所告訴
スーダン人道問題大臣アーメド・アルーン(Ahmed Haroun)とアリ・クシャイブ(Ali Kushayb)として知られるジャンジャウィード民兵リーダーが戦争犯罪と人道に反する罪の51容疑で、国際刑事裁判所によって起訴された。アーメド・アルーンは、「有罪だとは感じない」、良心にやましさはない、そして未を守る準備は出来ていると言った。[88]
2007年5月
スーダン大統領オマール・ハッサン・バシルとチャド大統領イドリス・デビは、両国間で緊張を減らすことを目的として、2007年5月3日に関する和平合意に署名した。[89][90] 協定は、サウジアラビアによって調停された。それは、それぞれの国が他方の政府に反対する武装運動に港、列車、ファンドを使われないようにすることを保証することを求めた。ロイター通信社は、「ヌーリのUFDDがスーダンだけでなくサウジアラビアの支援も受けていたかもしれないというデビの恐れが、木曜サウジアラビア人の仲介によるバシルとの協定に調印するようにした」と報じた。国際危機グループ・シンクタンクのチャドとダルフールの専門家、コリン・トーマス-イェンセンは「この新たな協定が、本物の雪解けにつながる関係あるはまたは治安状況の改善につながる」かどうかに関して重大な疑いを持っている。その上、2006年以来チャド東部でデビ・チャド大統領の軍に対して奇襲戦を行った民主主義と発展のためのチャド反政府連合軍(UFDD)は、サウジアラビア後援された和平協定はその軍事作戦を止めない言った。UFDDへのサウジアラビアの援助のアメとムチだけが、チャド政府をテーブルにつくよう強いたのかもしれない。かくして、スーダン政府をフリーハンドにすることで、その合意は結局最もスーダンの反政府勢力を傷つけることになるかもしれない。[91] 5月には、紛争に関連した場所は、GoogleEathに加えられた。
アムネスティ・インターナショナルは、ロシアと中国をスーダンに武器、弾薬と関連した器材を供給したとして非難するレポートを出した。[92][93][94]この機材は政府とジャンジャウィード民兵が使用するためダルフールへ輸送され、そうしてスーダンに対する国連武器禁輸を侵害した。そのレポートには、ダルフールのニアラで撮影された中国製ファンタン・ファイターやウクライナ製アントノフ26航空機(白く塗られている)の写真が掲載されている。レポートはスーダン空軍がジェット地上攻撃戦闘機やアントノフ航空機を使用するダルフールやチャド東部の村を無差別空爆する作戦を実行していた目撃証言を含む証拠を提供した。レポートは、2007年3月ダルフールのニアラ空港のロシア製ミグ−24攻撃ヘリコプター(登録番号n<928)の写真も含んでいた。数年の間、スーダン空軍は、アル・ダルフールの村のジャンジャウィードの攻撃の間の作戦のためこの種の攻撃ヘリコプターを使ってきた。レポートはまた政府がそれらを白く塗ることで軍用機とヘリコプターをカモフラージュして、もともとそれらが民生用だと主張することによって軍用機をそうしてカバーしようとしていたことをいたという証拠を示した。白いアントノフ-26航空機の写真は、ダルフールでの爆撃作戦で使用されてきたことが報告された。中国とロシアは、彼らが国連制裁を侵害したことを否定した。中国はスーダンとの緊密な関係があり、2007年はじめに政府との軍事協力を増加した。スーダンの石油の豊富な供給のため、中国はその成長する経済の燃料に必要な戦略的に必須のよい関係を考慮していた。.[95][96][97]
国際的反応(2003〜2004)
ダルフール紛争に対する国際的な注意は、主に2003年7月人権活動組織アムネスティ・インターナショナルと2003年12月国際的危機グループのレポートで始まった。しかし、国連スーダン人道援助コーディネーター、ムケシュ・カピラ(Mukesh Kapila)が2004年3月ダルフールを「世界最大の人道危機」と呼ぶまで幅広いメディア報道は始まらなかった。[98] 人道的干渉を提唱する運動が、それ以来数カ国で出現した。
アフリカの紛争を専門とする研究者ジェラード・プリュニエは、世界の主要国がほとんど懸念の表明を制限してきたとして国連が行動を起こすよう要求した。国連は、富裕国の資金提供と軍の支持が欠如しているため民間人の保護のための権限をあたえずアフリカ連合に形だけの軍(AMIS)を展開させておいたままだった。紛争の基礎をなす政治的および経済的な構造について取り組む外国の政治的意志の不足で、国際社会は人道援助用語でダルフール紛争を規定し、「ジェノサイド」のラベルを議論した。.[99]
ジェノサイド非難
2004年9月18日、国連安全保障理事会は決議1564を採択した。それはスーダンの紛争を評価するためにダルフールに関する査問委員会を求めるものだった。2005年1月31日に公表された国連レポートは、大量殺人やレイプはあるものの「ジェノサイドの意図が失われているように見える」ため、それをジェノサイドと呼ぶことは出来ないと述べた[100] [101]
2005年、ヘンリー・ハイド下院議員(R-IL)とサム・ブラウンバック上院議員(R-KS)は「ダルフール和平と責任法」提出した。それはアメリカに嫌疑のかかっているジェノサイドを停止するためもっと活発な行動を取リ、NATOの参加を促し、国連ダルフールミッションのため第7条委任を支持することを要求するものだった。議案は下院と上院によって可決されて、2006年8月現在、両院協議会の中にある。2006年8月に、ジェノサイド阻止ネットワークは紛争に関する法律にかんして議会メンバーをひとりひとり評価するダルフール得点表を公表した。[102]
国際的反応の批判
Criticism of international response
2006年10月16日少数派権利グループ(MRG)が、国連と主要国がダルフールで深まっている危機を防ぐことができ、ルワンダのジェノサイドの間大量虐殺の間不適切であったことからほとんど何も学んでいないこと訴える批判的のレポートを公表した。
MRGのエグゼキューティブ・ディレクター、マーク・ラッティマー(Mark Lattimer)は言った:「殺害、レイプ、避難換のこの危機のレベルは、予知することが出来避けることが出来た・・・10月20日に、6つの援助機関に後援されたホロコースト、カンボジア人とルワンダの大量虐殺の120人のジェノサイドの犠牲者が公開書簡を欧州連合に提出した。そして国連平和維持軍が「唯一の現実的なオプション」であって、ダルフールの残虐行為を終結させるためもっと行動するよう求めた。イージス・クレジットのディレクター、ジェームズ・スミスは、「アフリカ連合は非常によくダルフールで働き、出来ることはやってきたが、世界の他の国々は十分な資金や機材を提供すると言う形で彼らの努力をサポートしてこなかった」と述べた。[104]
人権擁護団体とスーダン野党は、自然資源獲得のため植民地権力がかつてアフリカの族長にその支配を維持するため軍事手段を供給したのとまったく同じように石油とガスを得るためのシニカルな試みとして兵器と航空機を提供する中国の役割を描写する[105][106][107]政治的な中国はハルツームを制裁から保護するために国連安全保障理事会でその拒否権を使う恐れを使ってスーダンに支援を提供してきた。そしてスーダンでの権益を守るためダルフールに関する決議を弱めることが出来た。[108]実際に石油を採掘する便宜のためスーダン政府による民間人殺害のさらなる証拠があった。南スーダンの攻撃を調査するアメリカが資金を提供する民間人保護監視団は「スーダン政府が石油探査のための道を開いて、油田の周囲に緩衝地帯をつくろうとしたためで、南スーダンの西北部ナイル地方の広大な地域は大規模な作戦の焦点になった」と結論した。[109] より良い自然資源統治のキャンペーンのNGOグローバル・ウィットネス上級活動家サラ・ワイクス、言う:「スーダンは中国から武器をおよそ1億ドルを購入し、ダルフールでの民間人に対してこれらの武器を使った。[106] 中国の石油会社がさらに、地元の住民が生き残る能力を妨げる環境破壊を行っているさらなる懸念がある。これは、侵食の脆弱さ、河川の沈殿、地すべり、氾濫、そして植物や動物の種の生息地の損失を増大させる材木輸出のための森林伐採を含む。[110]
持続的圧力とオリンピックのボイコットの可能性の要求は、フランスの大統領候補フランソワ・バイルー[111]、俳優でユニセフ親善大使ミア・ファロー、ジェノサイド阻止ネットワーク下院議員ロナン・ファロー[112]、作家でありスーダン研究者エリック・リーブス[113]とワシントン・ポスト編集委員[114]らから上がってきた。スーダン投資の引き上げ運動は、スーダンへの広範囲な投資をもつ国営石油会社ペトロチャイナ(PetroChina)にも集中した。[115]
他方で、ダルフール紛争を伝えた広告はアラブ人やイスラム世界で誇張されていると強く批判されてきた。アラブの新聞におけるこのような声明は、「(イスラエル人の)ロビー活動が、どんな詳しい議論も妨げ、パレスチナとイラクで毎日犯される犯罪から、注意をそらし、[116] ダルフール危機に対するその西洋の注意は、「われわれアラブ世界におけるヘゲモニーとコントロールの西欧の力によって本当に計画され、実行されているものを覆い隠す」[117]という見方をもたらす。「ニューヨークで、・・・何千枚ものポスターが『ジェノサイド』と叫び、『40万人が死んだ』と叫んでも、実際は「20万人が殺された」だけである。さらにダルフールで起こったことは「ジェノサイドではなく」ただの「戦争犯罪」である。[118] また別の不平は、ダルフールでは「なんら民族浄化など行われておらず」単に「ひどい不安定性」と「スーダン政府と、反政府勢力と、ジャンジャウィードの間の衝突がある」だけだというものである」。[119]
死者を数える
ひとつの理由として紛争をカバーしようとするジャーナリストの前にスーダン政府が膨大な障害を置くため、正確な死者数を推定するのは難しかった。[120]2004年9月世界保健機構(WHO)は紛争が始まって以来18ヶ月間5万人が主に飢餓により死亡したと見積もった。更新された見積もりは、翌月、2004年3月から10月までの6ヵ月間で7万人が飢餓と病気により死亡したとした;これらの統計は批判された。なぜなら、短期間だけを考慮し、暴力による美を含めなかったからである。[121] より最近のイギリス議会のレポートは30万人が死んだと見積もった[122]、また他の統計は多くさえ見積もっている。
2005年3月、国連緊急救援コーディネーター、ジャン・エゲランドは、民族的暴力による死者も含めて毎月1万人が死亡していると見積もった。[123] 推定200万人が彼らの家から追い出され、大部分はダルフールの主要な町のキャンプに避難を求めた。
20万人は近隣のチャドへ避難した。
2005年4月のレポートで、現在最も包括的な統計の分析で、国際的正義の連盟は紛争が始まって以来400万人がダルフールで死亡したと見積もった。この統計は大部分の人道援助団体や人権グループが現在採用している。[124]
2006年4月28日、エリック・リーヴズ博士は、「現存するデータを集計したところ、3年以上の凄惨な紛争の中で死亡した人の総過剰数は最大で45万人を大きく上回ると強く示唆する」と主張したが、これは独立して検証されなかった。[125]
2006年9月21日付けの記事で国連ニュース・サービスは「国連当局は、40万人が死亡し、200万人が家から避難したと見積もる」と報じた。[126] これが現在公認の国連数字であるように見える。
ポピュラー・カルチャー
・アウアー・レディー・ピース(Our Lady Peace)「アル・ジェニナ(リーブ・ライト・オン)」(Al Genina (Leave The Light On))はリード・シンガー、レイネ・マイダ(Raine Maida)の紛争地域ダルフール訪問に影響を受けている。
・ドキュメンタリー「馬に乗った悪魔」(The Devil Came on Horseback)は2007年初めに予定されている。
・テレビのいくつかのエピソードにわたる物語や数人の主な人物はER緊急救命室がダルフールを舞台にしていることを示している。
・テレビ番組ザ・ウェスト・ウィング(The West Wing)の第7シーズン、「国内難民」はダルフール紛争を扱っている。俳優ブラッドリー・ウィットフォード(Bradley Whitford)は、ダルフールとの国際的関係の必要についてのリに意見を述べた。[3]
・ダルフールの認識の必要を訴えるキャンペンがMTVで行われた
・人気があるCWショー、セブンス・ヘブン(7th Heaven)の第2エピソードはこの危機にささげられている。
・コミックブック、「スアドロン・スープリーム:ヒペリオン対ナイトホーク(Squadron Supreme: Hyperion vs. Nighthawk)」(マーヴル・コミックス(Marvel Comics)発売)、ダルフールを舞台とし紛争にハイライトをあてている。
・2006年ラッパー、ループ・フィアスコ(Lupe Fiasco)は音楽ゲストとして「コナン・オブライエンとレイト・ナイト(Late Night with Conan O'Brien)」出演し、パフォーマンスの終わりに「ピース・イン・ダルフール、レディス・アンド・ジェントルマン」(Peace in Darfur ladies and gentlemen)と言った。
・メタル・バンド2050は紛争について語る「ダルフール」と言う名の曲とビデオをリリースした。ミュージック・ビデオは「ダルフール・ミュージック・ビデオ」(Darfur Music Video)で見ることが出来る。
・多くのレゲエ、ダンスホール・アーティストとDJたちは状況に対する懸念を表明し、2006年のダンスホール・チューンで、アーティスト、キャプルトン(Capleton)は「Dem nuh like we true mi a speak out fi Sudan」を歌った。
・グリーンデイ(Green Day)はジョン・レノンの曲「ワーキング・クラス・ヒーロー」(Working Class Hero)をカバーするミュージック・ビデオをリリースした。そこに数名のダルフール人が登場しその経験を語る。
・俳優ドン・チードル(Don Cheadle)、マット・デイモン(Matt Damon)とジョージ・クルーニー(George Clooney)は、紛争に世界の注目を集めた目その知名度を利用した。[4]
注記:
1."Rights Group Says Sudan's Government Aided Militias", Washington Post, 2004-07-20. 改訂 2007-01-14.
2. Wikipedia英語版"Fur","Zagawa"の項目のほか USA Today, Slate , the New York Review of Books の記事を参照のことを。加えて次を参照のこと:国連事務総長へのダルフールに関する国際的査問委員会の報告(PDF)、国連、2005年1月25日(the Report of the International Commission of Inquiry on Darfur to the United Nations Secretary-General (PDF), United Nations, 25 January 2005):「攻撃と殺害の対象となった様々な部族(主にフール族(Fur)、マサリト族(Massalit)、ザガワ族(Zaghawa))と、彼らを攻撃する人ないし民兵が属する民族集団とは異なる民族集団を作るように見えない。彼らは同じ言葉を話し(アラビア語)、同じ宗教(イスラム教)を受け入れる」(p. 129).
3."Hundreds Killed in Attacks in Eastern Chad", Washington Post, 2007-04-11.
4."US Angry Over Sudan Leader's Denial of Role in Darfur Atrocities", Voice Of America, 2007-03-20.
5."With Sudan a member, the UN is pointless", The Times, 2006-10-24.
6."African Union Force Ineffective, Complain Refugees in Darfur", The Washington Post, 2006-10-16.
7."The horrors of Darfur's ground zero", The Australian, 2007-05-28.
8."Darfur Destroyed - Summary", Human Rights Watch, 2004-05.
9."Darfur Destroyed -Destroying Evidence?", Human Rights Watch, 2004-05.
10."Country Of Origin Report: Sudan", Research, Development and Statistics (RDS), Home Office, UK, 2006-10-27.
11."Tribune correspondent charged as spy in Sudan", LA Times, 2006-08-26.
12."World Press Freedom Review", International Press Institute, 2005.
13."Police put on a show of force, but are Darfur’s militia killers free to roam?", The Times, 2004-08-12.
14."Darfur: A ‘Plan B’ to Stop Genocide?", US Department of State, 2007-04-11.
15.http://news.yahoo.com/s/nm/20070312/wl_nm/sudan_darfur_rights_dc
16.Gerard Prunier, Darfur: The Ambiguous Genocide, Cornell University Press, 2005, ISBN 0-8014-4450-0, p. 4
17.Prunier, pp. 8-24
18.Prunier, pp. 42-44
19.Prunier, pp. 44-47
20.Prunier, pp. 47-52
21.Prunier, pp. 52-53, 56
22.The Sudan Liberation Movement and Sudan Liberation Army (SLM/SLA) Political Declaration. Sudan Liberation Movement (2003-03-14). Retrieved on 2007-02-07.
23.Julie Flint and Alex de Waal, Darfur: A Short History of a Long War, Zed Books, London March 2006, ISBN 1-84277-697-5, p. 76-77
24.Ibid., Report of the International Commission of Inquiry on Darfur to the United Nations Secretary-General (PDF), United Nations, 25 January 2005, p. 129.
25.Flint and de Waal, p. 99
26.Flint and de Waal, pp. 99-100
27.Flint and de Waal, pp. 60, 101-103
28.United Nations Inter-Agency Fact Finding and Rapid Assessment Mission: Kailek Town, South Darfur, United Nations Resident Coordinator, 25 April 2004
29.'Dozens killed' in Sudan attack (BBC) 24 May 2004
30.Sudan ex-rebel joins government (BBC) 10 July 2005
31.Sudan VP Garang killed in crash (BBC) 1 August 2005
32.Chad fightback 'kills 300 rebels' (BBC) 20 December 2005
33.Chad in 'state of war' with Sudan By Stephanie Hancock, BBC News, N'Djamena, 23 December 2005
34.Kessler, Glenn and Emily Wax. "Sudan, Main Rebel Group Sign Peace Deal", The Washington Post, 2006, May 5.
35."Main parties sign Darfur accord", BBC News, 2006, May 5.
36."Main points of the deal", Aljazeera.Net, 2006, May 6.
37."Annan outlines Darfur peace plans", BBC, August 2, 2006
38."Disagreements Over Darfur Peace Plan Spark Conflict", Voice of America, August 9, 2006
39."In a Darfur town, women recount numbing tale of their hell of rape and suffering", cbs11tv.com, 2007-05-27.
40."The horrors of Darfur's ground zero", The Australian, 2007-05-28.
41."Darfur women describe gang-rape horror", Associated Press, 2007-05-27.
42."U.N. Official Warns of Major New Sudanese Offensive in Darfur", Washington Post, August 18, 2006
43."UN Envoy Says Sudan Rights Record in Darfur Poor", Voice of America, August 17, 2006
44."Sudan reiterates opposition to replacing AU troop with UN forces in Darfur", People's Daily, August 19, 2006
45."US threatens Sudan after UN resistance", Independent Online, August 19, 2006
46."Khartoum turns down UN meeting on Darfur peace", Deutsche Presse-Agentur, August 24, 2006
47."UN Security Council to meet on Darfur without Khartoum attendance", Deutsche Presse-Agentur, August 24, 2006
48."Sudan: Sexual Violence Spikes Around South Darfur Camp", Integrated Regional Information Networks, August 24, 2006
49."US Warns of Security Crisis in Darfur Unless UN Force Deploys", Voice of America, August 25, 2006
50."U.S. journalist returns home from Sudan prison", MSNBC, September 10, 2006
51."U.S. journalist in Darfur court for espionage", Reuters, August 26, 2006
52."Sudan Rejects UN Resolution on Darfur Peacekeeping", Voice of America, August 31, 2006
53."Sudan reported to launch new offensive in Darfur", Associated Press, September 1, 2006
54."Defiant Sudan sets deadline for Darfur peacekeeper exit", AFP, September 5, 2006
55." Chad's president says he supports U.N. force for neighboring Darfur", Associated Press, September 4, 2006
56."Africa Union 'will quit Darfur'", BBC, September 5, 2006
57."African Union's Darfur force may stay past Sept 30", Reuters, September 6, 2006
58."U.N. refugee chief warns of Darfur "catastrophe", Reuters, September 8, 2006
59."Sudan bombing civilians in Darfur - EU envoy", Reuters, September 12, 2006
60."Violence in Darfur cuts off 355,000 people from food aid", People's Daily, September 12, 2006
61."Annan calls for "urgent" Security Council action on Darfur", People's Daily, September 12, 2006
62."Ex-rebels says would accept UN in Darfur", Reuters, September 14, 2006
63."We don't want Sudan to turn into "another Iraq" in the region - al-Bashir", Kuwait News Agency, September 21, 2006
64.a b "Genocide survivors urges EU sanctions over Darfur", Reuters, October 20, 2006
65."AU will not abandon Darfur - AU chairman", Reuters, October 2, 2006
66."200 UN troops to deploy in Darfur", Toronto Sun, October 10, 2006
67."Extend Sudan U.N. mission", United Press International, October 9, 2006
68."Forty countries face food shortages, Darfur crisis is the most pressing: UN agency", United Nations, October 9, 2006
69."UN official: Khartoum knew of Darfur militia raid", The Guardian, October 10, 2006
70."Nigerian FM arrives in Khartoum for talks on Darfur", People's Daily, October 12, 2006
71."Bush signs law setting sanctions on Darfur crimes", Washington Post, October 13, 2006
72."UN envoy is told to leave Sudan", BBC News, 22 October 2006
73."U.S. works on international plan for Darfur", Reuters, November 1, 2006
74."Sudan says ready for talks with Darfur's NRF rebels", Reuters, November 9, 2006
75."US Rice hopes Sudan will okay Darfur force", Sudan Tribune, November 17, 2006
76."Sudan 'did not' give ok over international force for Darfur - top official", Kuwait News Agency, November 17, 2006
77."UN insists Khartoum will allow UN force into Darfur", Deutsche Presse-Agentur, November 19, 2006
78."Sudan 'begins new Darfur attacks'", BBC News, November 18, 2006
79."Army attack against Darfur civilians was unprovoked - UN", Sudan Tribune, November 25, 2006
80.[1]
81."73 villagers killed, rebel group says", LA Times, 2007-04-18.
82."The UN and Darfur: Watching, but still waiting", The Economist, 2007-03-16.
83."African troops killed in Darfur", BBC News, 2007-04-02.
84."Sudan Flying Arms to Darfur, Panel Reports", The New York Times, 2007-04-18.
85."Attacks in eastern Chad last month killed up to 400, U.N. refugee agency says", International Herald Tribune, 2007-04-18.
86."Up to 3,000 villagers flee homes in south-east Chad following fresh attacks", UNHCR, 2007-04-03.
87."Bush Presses Sudan on Darfur, Citing possible US sanctions", New York Times, 2007-04-19.
88."Darfur war crimes suspect defiant", BBC News, 2007-02-28.
89."Saudi Arabia Brokers Agreement Between Sudan and Chad on Darfur", PR Newswire, 2007-05-03.
90."UN Secretary-General welcomes signing of agreement between Chad, Sudan", ReliefWeb, 2007-05-07.
91."Chad-Sudan pact will not halt war-Chadian rebels", Reuters, 2007-05-05.
92."Sudan: Arms continuing to fuel serious human rights violations in Darfur", Amnesty International, 2007-05-08.
93."Report Accuses China and Russia Of Arming Sudan", New York Times, 2007-05-09.
94."Congress pressures China on Darfur as Olympics near", San Francisco Chronicle, 2007-05-17.
95."China, Russia breach Darfur arms embargo: Amnesty", Reuters, 2007-05-08.
96."China, Russia deny weapons breach", BBC News, 2007-05-08.
97."Amnesty International criticizes arms sales to Sudan", LA Times, 2007-05-09.
98.Prunier, pp. 124-148
99.Prunier, pp. 124-148
100.Report of the International Commission of Inquiry on Darfur to the United Nations Secretary-General, 18 September 2004
101.Sudan's mass killings not genocide: UN report, CBC News, 1 February 2005
102."Darfur scorecard"
103."UN could have averted Darfur crisis - MRG", Independent Online, October 16, 2006
104."Darfur call by genocide survivors", BBC, October 20, 2006
105."CHINA’S INVOLVEMENT IN SUDAN: ARMS AND OIL", Human Rights Watch, 2007-12-23.
106.a b "China Invests Heavily In Sudan's Oil Industry", Washington Post, 2007-12-23.
107."Artists abetting genocide?", Boston Globe, 2007-04-16.
108."The Increasing Importance of African Oil", Power and Interest News Report, 2007-03-20.
109."Final Report: REPORT OF INVESTIGATION: VIOLENCE AGAINST CIVILIANS ALONG THE BENTIU-LEER-ADOK ROAD.", Civilian Protection Monitoring Team, 2003-08-19.
110."Scramble for Africa", The Guardian, 2007-05-02.
111.Call for Olympic boycott stirs up pre-poll France, Reuters. Retrieved on 2007-03-22.
112.The 'Genocide Olympics', The Wall Street Journal, 2007-03-28. Retrieved on 2007-03-28.
113.On Darfur, China and the 2008 Olympic Games, Sudan Tribune, 2007-02-11. Retrieved on 2007-03-28.
114.China and Darfur: The Genocide Olympics?, The Washington Post, 2006-12-14. Retrieved on 2007-03-28.
115.Response to Berkshire Hathaway's statement on its holdings in PetroChina Company Limited, Sudan Divestment Task Force, 2007-02-23. Retrieved on 2007-03-28.
116."Since The Victims Are Arabs and Muslims" by Jihad Al-Khazen, Al-Hayat (English edition), April 13, 2007.
117.editorial in the newspaper Al-Gomhouriya (Egypt), April 20, 2007
118.editorial in the newspaper Al-Gomhouriya (Egypt), April 20, 2007
119.Sudanese journalist Babker 'Issa, editor of the daily newspaper Al-Raya, Al-Raya (Qatar), April 20, 2007.
120.Sudan Annual Report 2004 Reporters Without Borders, 2004
121.How many have died in Darfur? By Russell Smith (BBC) 16 February, 2005
122.Darfur death toll may be 300,000, say UK lawmakers (Reuters), 30 March, 2005
123.UN's Darfur death estimate soars (BBC) 14 March, 2005
124.New analysis claims Darfur deaths near 400,000 Coalition for International Justice, 21 April 2005 (PDF)
125.Quantifying Genocide in Darfur Dr. Eric Reeves, 28 April 2006
126."Annan welcomes extension of African Union mission in Darfur," UN News Service, 21 September 2006
2007年09月08日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/54497029
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック
http://blog.seesaa.jp/tb/54497029
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。
この記事へのトラックバック




